舘山城跡の調査に着手 米沢時代の政宗 本拠の可能性(従来は江戸時代の上杉氏が使用した米沢城が継続して使用されたとされてきた(河北新報)http://www.kahoku.co.jp/news/2010/08/20100805t15031.htm

山形県米沢市教委は4日、仙台藩伊達政宗(1567〜1636年)が米沢支配時代に本拠とした可能性のある舘山城跡の現地調査に乗り出した。本拠は、市中心部の上杉神社の場所に位置した米沢城が従来の通説だが、市教委は過去の現地調査を踏まえて市西部山間部の舘山城説を主張しており、今回の調査で裏付けを急ぐ。

 これまで目立たなかった米沢時代の伊達家の歴史を発掘し、仙台市などと連携した歴史観光誘客などに役立てる狙い。同時に将来的に城周辺を国指定の史跡化し、歴史公園としたい意向もある。
 調査は今後3年間で約5000万円をかけて実施する。城一帯は全体で約28万平方メートル。主に周辺を調査し、城本体との関連性などを探る。本年度は二の丸、三の丸に相当したと考えられる城跡南側の9万平方メートルに着手。4日はその範囲で測量調査を始めた。
 伊達家本拠の城は(1)米沢城と舘山城の使い分けを示す決定的な史料が現存しない(2)舘山城は1591年に政宗岩出山城大崎市岩出山)に移る際に破却されたとみられる(3)伊達以降の蒲生氏、上杉氏が米沢城を築いた記録がない―などの理由から、専門家の間でも状況的に伊達時代の米沢城=舘山城説が有力とされてきた。
 市教委は歴年の調査で舘山本拠説を強めてきた。1998年に城本体の発掘調査を行い、土塁、竪堀などの充実した防御設備を確認した。
 さらに2001年の発掘調査で、舘山城北側に伊達晴宗、輝宗、政宗の3代の支配時の16世紀と推測され、長期的に9度の増築がされた大きな武家屋敷群の遺構も認めた。屋敷群が共存する大規模な山城は全国的にも珍しいという。
 政宗豊臣秀吉の命令で岩出山城へ移る際に主要な人材や寺社などはすべて引き継いだため、米沢には関連史跡がほとんど残っていなかった。明治までの約270年に及ぶ上杉家統治が長く、地域のご当地意識も強いため、伊達の歴史は注目度が低かった。

ちなみに、伊達政宗岩出山に移封後の米沢城主は、伊達政宗蒲生郷安直江兼続(ただし、兼続が主君の会津若松城詰めの為、実父の樋口兼豊が実質の城代として在陣)→上杉景勝関ヶ原での減封により、会津若松城から移封)、以後初代藩主上杉景勝から13代藩主・上杉茂憲時に廃藩置県により廃藩になるまで上杉家が城主を世襲