- 明治以前は神功皇后を15代の帝と数えていたが、歴代天皇から外された。
- 壬申の乱で敗死した大友皇子は、即位が確認されたとされ、明治3年に「弘文」天皇した。現在では非即位説が有力。
- 47代「淡路廃帝」に対して明治3年に「淳仁」と追号した。
- 承久の乱に敗れた「九條廃帝」は天皇に数えていなかったが、明治3年に「仲恭」と追号した。
- 明治44年に明治天皇の命令で、南朝2代を正統な天皇と認め、従来の96〜100代の天皇を北朝として正統から外した。
- *義良親王(南朝)は、即位が確認されたとされ「後村上」天皇とした。
- *熙成親王(南朝)は、即位が確認されたとされ「後亀山」天皇とした。
- 大正15年に大正天皇(実質は摂政の裕仁皇太子=昭和天皇)の命令で、南朝を正統とした後も即位の是非で意見が別れていた寛成親王を、即位が確認されたとして「長慶」天皇とした。
つまり、後小松天皇は現在100代目の天皇とされていたから、孝明天皇は第122代目の天皇と当時名乗っていたということでしょうか?