本日で慶長三陸地震・慶長三陸津波から400周年http://www.dcrc.tohoku.ac.jp/surveys/20110311/event.html

旧暦(和暦:宣明暦)では、慶長16年10月28日ですが、現在の日本のこよみと同じ当時のグレゴリオ暦(現在の日本で使われている新暦と同じ)では、1611年12月2日発生のため、今日でちょうど400周年となる。

12月2日は,慶長地震津波(1611) の400周年にあたります.この地震津波は,東北地方太平洋沖地震の発生後に,北海道東方方沖地震津波と関係し再検 証する必要があると言われ,注目されていています.さらに,当時も甚大な被害を受け,その後様々な復旧・復興の事業が展開され,地域の発 展に結びついたと言われます.東北大学防災科学研究拠点グループでは,この地震津波および復興に関するシンポジュウムを以下の専門家に話題提供を頂き,議論を深めた いと思います.

東北大学大学院工学研究科附属 災害制御研究センター、より

 東日本大震災の大津波と同規模だったといわれる1611(慶長16)年の慶長津波をテーマにした「慶長地震津波400周年シンポジウム」が2日、仙台市青葉区の東北大青葉山キャンパスで開かれる。これまで理系の研究者の注目度は高くなかったが、歴史学の視点で再考察し、慶長津波から学ぶべき教訓を考える。
 主催は東北大の防災科学研究拠点。東日本大震災の大津波は、869(貞観11)年の貞観地震以来の「1000年に1度」の規模とされている。慶長地震も大地震だったが、貞観地震よりは規模が小さく、地震研究者の間では当時の様子を記した文書の信頼度は高くなかった。
 東日本大震災の前から歴史学や文献史学の視点で慶長津波の再検証を模索していた防災科学研究拠点は、震災後に見直し作業を本格化。各種文献を精査した結果、東日本大震災の大津波貞観津波に匹敵する規模だった可能性が高いとの結論に至り、今回のシンポジウムを企画した。
 研究拠点代表の平川新・東北アジア研究センター教授は「400年前に起きた慶長津波の評価が東日本大震災の前から違っていたら、『1000年に1度』的な捉え方でなく、津波想定や危機意識も変わっていたはず」と問題提起する。
 シンポジウムは津波工学の第一人者で、東北大災害制御研究センター長の今村文彦教授がコーディネーターを務める。
 慶長津波の再検証に当たってきた東北アジア研究センター・教育研究支援者の蝦名裕一さんが研究成果を報告。東大や東北大の地震研究者らと意見を交わす。蝦名さんら文系サイドからの報告を踏まえる形で、防災科学研究拠点の理系研究者が解析し直した慶長津波地震規模も発表する。
 蝦名さんは「慶長津波は『慶長三陸津波』とも称されてきたが、甚大な被害は三陸にとどまらず福島県沿岸にも達していた。『慶長奥州津波』と名称の変更も提案したい」と話している。

河北新報、より→http://www.kahoku.co.jp/news/2011/12/20111201t15012.htm

1611年(慶長16年)に起こった慶長三陸地震によっておこったとされる津波


北海道南部東岸〜三陸海岸〜仙台平野と福島県北部に高さ6〜8mの津波が押し寄せ、また沿線の北上川鳴瀬川七北田川、名取川阿武隈川などが逆流するほどの甚大な被害がもたらされ、伊達藩・南部藩・相馬藩で多数の犠牲者が出たとされる(伊達藩にはその時に1783名が亡くなったとの記録が残り、南部藩領の現在の陸中海岸・下北半島東部では『人馬三千余』の犠牲が出たとの記録が残っている。相馬藩にも約700名の被害との当時の記録が在り、蝦夷地については詳細不明ながら地元のアイヌ人の津波被害についての伝承あり)。


また、この地震津波は作者不詳の『駿府記』に、慶長16年10月28日(西暦{グレゴリオ暦}:1611年12月2日)に発生したこの地震について「慶長十六年辛亥、十月大晦日、松平陸奥政宗、献初鱈、就之政宗領所、海涯人屋、波濤大漲来、悉流失、溺死者五千人(千一本作十)世曰、津浪云々」と記され、『津波』という言語が日本で初めて使われたものでもある。

はてなキーワードより


※関連歴史資料の一覧は↓の『成実三昧 慶長三陸地震』さんに詳しい。
http://shigezane.fc2web.com/majime/sanriku-jishin.html

『貞山公治家記録』
『相馬藩世紀』
仙台市史』
『仙台寺社巡り」記・地元伝承』
駿府記』
『金銀諸島探検記 セバスチャン・ビスカイノ』
『山田町字關谷武藤六右衞門氏所藏古文書 古来覚書』
など。