平家物語etc..

平家物語の時代、平家一門の公卿は16人(十六人)、殿上人は30余人、諸国の受領や衛府、諸官省の役人はあわせて60余人に達っし独占していた

(ただし、この表現には誇張が含まれており、同時期に公卿に列した人数は最大でも12名(十二名)であった)。

って、ことは平忠盛の子孫はかなり公卿*1(例外は清盛の義弟・平時忠ぐらいか)だったってことか…。


※追記・調べてみました(※ウィキペディアでの各個人の極官参照)。
伊勢平氏最盛期の公卿は、当主の平清盛からその弟の(経盛・教盛・頼盛、※もう一人の弟忠度は四位止まり)、清盛の子の(重盛・宗盛・知盛・重衡・徳子<建礼門院>*2・盛子*3)、清盛の孫で重盛の子の(維盛・資盛)と宗盛の子の(清宗)、清盛の弟・教盛の子の(通盛)の14人で、清盛の妻の平時子とその実弟平時忠も含めると16名。
女性の3名は除いているのか、早死にした人物は除くのかと思いましたが<重衡・盛子が真っ先に亡くなっている>ので多分、女性は除いての数だと思います。(しかし、同時期ではないと思うが、女性を含めると平家物語の通り一族・郎党から16人も公卿を出してる!、ただし女性は基本的に女性専用の官位にしか就けないので公卿とはいえませんが…)
<ただし、重衡・盛子が相次いで亡くなる前に、若年の人物がまだ殿上人となって昇殿を果たしているかどうかまでは分かりませんでした>


※追記…出家者と女性は普通公卿に含まないとのことですので、出家していた当主の清盛を除くと平重盛の死去(1179年9月2日)までに全員三位まで昇進でていれば、確かに12人になりますね。
<※ウィキペディアによると、治承三年の政変で公卿だった平頼盛が解官されるも、

しかし頼盛については、武官職である右衛門督の解官のみにとどめているので、頼盛の万が一の妨害を懸念しての予防措置であったとも考えられる。頼盛は翌治承4年(1180年)正月には早くも出仕を許された。言仁親王即位に向けて一門の結束が図られ、頼盛も政権中枢に迎え入れられる。4月の安徳即位に伴う叙位で、頼盛は従二位に叙せられた。この時、平氏一門で叙位されたのが頼盛だけだったことも、政権内部において頼盛の存在が重みを増していたことを示すものといえる。

(※正三位は剥奪されてないので一応公家?)翌年正月には復帰、

人事面では平経盛修理大夫になったのが目立つ程度で、解任された公卿たちの後任の多くを親平氏あるいは中間派とみなされた藤原氏の公卿が占めた。また、解任された公卿の多くも翌年には復帰している。

とのこと。


※以下、当時書いた文
こりゃ、豊臣秀吉の時代より酷いわけだから↓(秀吉は弟1人と地侍出身の正妻の一族ぐらいしか藩屏がいなかったことはあるが)
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%c9%f0%b2%c8%b4%b1%b0%cc
藤原氏や源氏などの名門公家から反発を受けたわけだな…。


※ちなみに、江戸時代は、公家官位と武家官位を分け、それぞれ幕府側と朝廷側が官位を推薦し、天皇から任官されていて事実上、公家の定数が『平家物語』時代の倍にもかかわらず、江戸時代の武家の公卿は(徳川本家当主とその世子・尾張徳川家当主・紀伊徳川家当主・水戸徳川家当主・加賀前田家当主と御三卿のそれぞれの当主で最大で9ほど<御三卿以外の当主は隠居した場合出家しない限り、官位は返上しないので、その場合10人以上になることはあったが、御三卿創設前は将軍世子がいなければ5人ほどだったことになる>

*1:基本的に従三位中納言以上、但し名門公家の当主・継嗣は、参議以下でも昇殿が許された

*2:高倉天皇中宮

*3:摂政・近衛基実正室